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【第25回】  2014(平成26)年3月14日配信

小樽の量徳小学校と天川恵三郎



    こんにちは! 北海道立アイヌ民族文化研究センターです。
   3月は進級や卒業などのシーズンです。その一方で、少し寂しいことではありますが、人口減少などの事情で、地域と歩んできた学校がその歴史に幕を下ろしたとの便りを聞く季節でもあります。

 2年前の2012年3月、小樽市の中心部にあった小樽市立量徳(りょうとく)小学校が、小樽市の学校再編に伴い閉校となりました。開校から138年という、小樽市の小学校の中でももっとも古い歴史を持つ小学校でした。

 量徳小学校の開校は1873(明治6)年9月。翌年、1874(明治7)年2月の記録によれば、生徒は49名。この生徒たちが、同校の"一期生"ということになります。
 一期生の中に4名のアイヌの生徒がいた、と記録されています。このうちのひとりが、天川恵三郎(あまかわ けいざぶろう)です。

 天川は、在学中の成績も首席だったと言われていますが、その名が知られるようになったのは、1900(明治33)年頃からです。旭川で、この地域のアイヌが暮らすための土地が不当に侵害される問題が起こったとき、このころ浜益(はまます:現石狩市浜益)に住んでいた天川は、旭川のアイヌの土地を守る運動に参加、その前面に立ったのです。
 アイヌ語の研究でも知られる金田一京助も、天川のことを、江戸時代の佐倉(現千葉県北部)の義民として知られた佐倉惣五郎(さくら そうごろう)にたとえ、「アイヌの佐倉惣五郎の話」という随筆を書いています。

 小樽の小学校に入学した天川が、なぜ浜益で暮らしていたのでしょうか。それは、当時の開拓使などの施策によるものでした。小樽の中心部で暮らしていたアイヌは、1880(明治13)年ごろに少し離れた高島に移され、さらに浜益へと移されたのです。天川は、自分自身の暮らしがこうした施策に大きく影響を受ける中で、幼・少年時代を過ごしていたのでした。浜益でも天川は、ここで生きていくことになったアイヌの土地を守り、農業などの暮らしの基盤を築く活動を続けたとされています。
 浜益の、天川が暮らしていた集落に向かう道には、「第一天恵橋」「第二天恵橋」という名の橋があり、今も天川のことを偲ばせます。

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