①のスケッチは、アイヌ語地名研究者の山田秀三氏が、 網走市の天都山(現在では北海道立北方民族博物館や展望台、オホーツク流氷館などが建っている山です)から見た、網走市の大曲付近のようすを描いたスケッチです。②の写真は、同じ景色を山田氏が撮影した写真です(パノラマのように、2枚の写真を貼り合わせてあります)。 |
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これらは、山田氏が1960(昭和35)年に網走市を訪れたときの、地名調査の記録のファイル『釧路 網走 斜里 記』(資料番号YF0147)の中に含まれているものです。③の地図も、このファイルにあるもので、山田氏が網走付近のようすを描いたものです。○で囲んだところが天都山で、①と②は、そこから矢印の方向を望んだものです。
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知里真志保氏の『地名アイヌ語小辞典』(楡書房、1956年)や『網走市史』(網走市、1958年)などの文献によれば、網走市の大曲のあたりは、昔は「タンネ・ヌタプ」と呼ばれており、「タンネ(長い)」「ヌタプ(川の湾曲部内の土地)」を意味すると言われています。山田氏は、そのような地名を実際にたしかめるべく、山の上からこの地形を見てみたのではないかと思われます。スケッチの上部にはタイトルふうに「Tanne nutap」と記されており、スケッチの左側の部分、網走川が大きく屈曲している内側に、同じく「Tanne nutap」と書き込まれています。
1960年代頃までの山田氏の地名調査記録には、①のようなスケッチが多く見られます。カラー写真が簡単には撮影できなかった時代に、山田氏の目に映った土地のようすや風景を記録するために、山田氏はこのようなスケッチを多用したものと思われます。また、②の写真と比べていただければわかるとおり、スケッチには、写真では捉えにくい地形を描くことができるという利点もあったのではないかと思われます。
このようなスケッチは、しばしば、官製葉書の裏面に描かれています。表の宛名は妻の山田總子氏宛になっていて、旅先からの、短い中にも気持ちの込められた文が綴られています。山田氏は、地名調査に訪れた先で、何枚もの葉書に地形をスケッチして、便りを添えて總子氏に送り、戻ってからそれを地名調査の記録に綴じていったのです。
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網走川を遡ると、網走刑務所の南の処で大きく屈曲して袋地を囲んでいて、この辺の地名は大曲である。知里博士小辞典〔『地名アイヌ語小辞典』〕はそこのことを「原名はタンネ・ヌタプ tanne-nutap (長い・ヌタプ)で、ヌタプとはそのような湾曲内の土地を云うのである。」と書いた。
ヌタプという語は、土地により人により意味が違って解に苦しむことが多いが、ここは川曲がりの中の袋地を呼んでいた例である。
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(山田秀三『北海道の地名』草風館、2000年 より) |