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HOME > 調査研究 > アイヌ音楽の録音・録画のあゆみ> 第1回 「音楽学者・田辺尚雄氏による樺太アイヌ音楽の録音(1)」

第1回 「音楽学者・田辺尚雄氏による樺太アイヌ音楽の録音(1)」

 連載の第1~2回は、そうした研究者の中から音楽学者の田辺尚雄(たなべ・ひさお)氏の調査行の概要や、氏の遺した資料や著作等の情報を紹介します。
 
※田辺(田邉)氏の「辺(邉)」は、明治~昭和にかけての著作ではほぼ「邊」で表記されていますが、晩年の自著他では「辺」を用いていること、現在の事典などの項目でも「辺」が用いられていることなどを考えあわせ、本稿では書誌事項以外は「辺」に統一して表記します。
※田辺氏の著作の表題や引用文中には、現在では不適切とされる用語が使用されていることがあります。本稿では、そうした用語が使われる時代背景を示すものとして原題原文のまま掲載していますので、ご了解ください。
※参考文献等は、第2回の文末にまとめて掲載します。
 
■田辺尚雄氏について
 
 田辺尚雄氏(1883-1984)は、明治から昭和にかけての、日本における近代的な音楽研究の草分けの一人にして第一人者といえる、多才な音楽学者でした。旧制第一高等学校在学中に並行して東京音楽学校(=東京芸術大学の前身)の専科でヴァイオリンを学ぶなど、専門的な西洋音楽の実技や知識を習得します。さらに、東京帝国大学(=東京大学の前身)物理学科を卒業し、同大学院進学後は音響学を専門に音響心理学や生理学も学ぶかたわら、田中正平氏*1主宰の邦楽研究所で日本音楽や日本舞踊を学んで習得しています。こうした幅広い専門的な技能と知識を背景に、日本の伝統音楽やアジアを中心とする諸民族の音楽に関する多くの著作を遺すとともに、西洋音楽・東洋音楽を網羅する博識をもって音楽教育や音楽文化の振興に長らく貢献しました。

田辺尚雄(1883-1984)氏
(『続田辺尚雄自叙伝』より転載)

 学術調査では、東大寺正倉院の所蔵楽器の音律調査、国内各地をはじめ朝鮮・中国・台湾・琉球諸島・樺太・太平洋諸島などの伝統音楽の調査を行っています。1929年に帝国学士院賞を受け、1936年には東洋音楽学会設立とともに初代会長に就任しています。
そして、アイヌ音楽の研究史という面からは、音楽学者としては(日本人としても)初めての、アイヌ音楽の調査と録音をおこなった人物として、その名を挙げることができます。
 
■田辺尚雄氏による樺太調査行
 
 1923(大正12)年夏、田辺尚雄氏は樺太(=現在のサハリン。当時は南半分が日本領でした)へ赴き、アイヌ音楽の調査と録音をおこなっています*2。これは、アイヌの音楽や口承文芸の、現在知られている最も古い録音*3から2番目に古いものです。以下に、その調査の概要を紹介します。
 
(1)使用した録音機器

 当時、録音器は非常に高価であり、また調査に携行できるような小型で簡便なものは一般には流通していませんでした。田辺氏は、次のような「写生蓄音器」を用いたようです。

私が録音のために持ち歩いた器械は、普通の手さげポータブルを改造して、そのサウンドボックスに録音針を付けた簡易なもので、それを「写生蓄音器」と称していた。私の友人の工藤豊三郎君(簡易な手廻し蓄音器を発明して特許を得た技術者)の設計で製作したもので、前年(大正11年)の台湾や沖縄の旅行にも使用した*4

 また、自ら蓄音機を改良して録音機を製作することもあったようです。


〔前略〕大正年代には未だマイクロホンの発明なく、録音は凡て器械的なアクスチック録音で、而もレコード会社以外、個人が自由に録音する設備はなかったので、私は家庭用のラッパ附手廻し機の蓄音器(手提げ用)を買い求め、それに吹込み装置を自分で工夫して取りつけ、これを蝋盤に録音するように作りかえた。但し装置を簡単にするためにエヂソン式の深浅溝録音にした*5

 専門的知識の必要なこうした作業が可能だったのは、一つには「もともと物理学者であった為、この種の録音機の開発にもよく相談に乗っていたので、当時としては最も進んだ携帯蓄音器を改良入手することが出来た」*6ということも大きく働いていたと思われます。
 
(2)樺太の白浜での採録調査

 1923(大正12)年7月下旬、田辺氏は小樽から航路で樺太の大泊に上陸します。大泊からは鉄道で豊原、栄浜に宿泊、再び航路で北上して敷香に到着、ここでウイルタやニブヒの人々から歌や踊りを採録します。その後南下して元泊、栄浜に宿泊。そして8月3日の早朝、栄浜の郵便局長に交渉し「自分の身を小包郵便と化して」*7乗せてもらったという郵便馬車で*8白浜に向かいます。

 当時、樺太各地のアイヌの人々を何カ所かに強制的に集住させ集落を設置・造成することが行われていました。白浜もその一つで、田辺氏が来訪する3年前の1921(大正10)年に新設された集落です。

 田辺氏の調査・録音のために、白浜の教育所の教員を務めていた伊藤清勝・伊藤みさを夫妻の助力で採録への協力者が集められ、同日午後に採録調査が行われました。
 この日の調査の概要を、田辺氏の自伝から以下に引用・紹介します。

(※アイヌ語の表記は原文のままです。なお、見やすさを考慮して、原文にはない改行を適宜加えています。)




田辺氏の手書きによる樺太の略図(『島國の唄と踊』より転載)。
鉄道の北端の「榮濱」の北西に「白濱」と書かれています。
 
 
〔前略〕私は午後一時半から三十分間、民俗音楽舞踊を尊重すべきことなどを講演した。
終って、アイヌの人たちの演奏が開始された。
第一部 踊り
(一) イソヘチリ(熊祭の踊り) 初めに男子八人、後に女子八人
(二) タッカラ(座興の踊り) 老翁山中平吉一人
(三) トンコリヘチリ(琴による踊り) 女三人
第2部 歌謡
(一) ユーカラ(神歌又古歌) 坂井幸太郎
(二) ヤイカテカラ(流行歌) エヌマ女
(三) エフンケー(子守歌) エヌマ女
(四) ハウキ(物語歌) 日勝勉之助(アイヌ名ソーコンテ)
(五) オイナー(祭文のよう) ヘレケー女
(六) ツイター(昔話) スーパ女
なお楽器としては次の三種が用いられている。
(一) トンコリ 五弦琴、これに合せて種々の擬音を行う。主として女が奏する。
(二) ムックナ〔中略〕 これには二種あり。ひとつは竹製で台湾高砂族の口琴(ロポ)に類似している。他の一つは鉄製のJew's harpで、ギリヤークのコンコン、オロッコのムホーニュと同じ。これも女がやり、擬音や、口中で語りながら奏する。
(三) ペックツ、レッテ 「ポンナ」(ペックツ)草の長い茎(長さ三メートル以上)を切り、これを一種のラッパとして鳴らす(倍音を用いて奏す)。足内源次演奏。 なおこの他「レクッカラ」と称する特異な奏法がある。これは女が二、三互いに口を附け、両手で蔽いながら一方で歌う間に、これに合せて他の者が吸う息で奇妙な響音を出してこれに合す。吸息音を歌に用いるのは極めて珍しい。
 右の演奏が終って、私は特に次の数種を写生蓄音器に録音した。
(一) エフンケー(エヌマ女)
(二) ヤイカテカラ(エヌマ女)
(三) ユーカラ二種(坂井幸太郎)
(四) ハウキ(日勝勉之助)
(五) オイナー(ヘレケー女)
午後四時、皆の盛んに引きとめるのを断わって急に帰ることにした〔後略〕*9

 次回は、このときの録音資料や、その他関連する資料について、紹介します。
 
(註)
*1 田中正平(1862-1945)物理学者・音楽学者。ドイツに留学してヘルムホルツに師事し、純正調音階理論を研究。純正調オルガンの発明者。
*2 この調査行では、アイヌ音楽のほか、同じく樺太の先住民族であるニヴヒやウイルタの人々の音楽も録音されています。
*3 アイヌ音楽やアイヌ語の録音としては、ポーランドのB.ピウスツキによる1903~1905年頃の録音資料が、現在知られる限り最も古いものです。
*4 田辺(1982)P.283-284   ※以下の文献については、次回の記事でまとめて記載します。
*5 田辺(1978)解説書P.1
*6 田辺秀雄「解説」より(田辺(1978)解説書所収)。
*7 田邊(1927)P.141
*8 道中、馬車の激しい揺れと蚊の大群に難儀したことが田邊(1927)や田辺(1982)で述懐されています。
*9 田辺(1982)P.202-203
 
(研究職員 甲地利恵)



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