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こんにちは! 北海道立アイヌ民族文化研究センターです。
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「アイヌ文化発信!コラム ~アイヌ文化あれこれ~」も、おかげさまで2年目に入りました。今年度も、どうぞよろしくお願いいたします。
当研究センターの住所は、札幌市中央区北3条西7丁目です。北海道庁の本庁舎が北3条西6丁目、多くの観光客が訪れる北大植物園が北3条西8丁目です。その間に立っている緑苑(りょくえん)ビルというところに、私たちの研究センターがあります。
この「北3条西7丁目」は、アイヌの歴史にゆかりの深い場所なのです。
今回は、ふだんのアイヌ文化の話題とは少し角度を変えて、札幌市中央区北3条西7丁目にみる、アイヌの歴史の一コマを紹介します。
明治時代になって、北海道でも函館や札幌などでキリスト教の布教活動がさかんになりました。その中でも、イギリス人宣教師ジョン・バチラー(1854~1944。「ジョン・バチェラー」と書かれることもあります)は、1877(明治10)年に初めて北海道に来てから、60年以上にわたって北海道の各地でアイヌ民族に対する伝道などを熱心に行ったことで知られています。
バチラーは、1892(明治25)年から、札幌に住所を移しました。その場所が、北3条西7丁目だったのです。
バチラーのもとには、キリスト教の信者となって布教活動に携わった人、バチラーのさまざまな活動に協力した人などが、たくさん訪れています。また、バチラーはアイヌ語やアイヌ文化についても多くの著書を出版していたので、アイヌ文化などを調査するために北海道を訪れた研究者の多くがバチラーのもとを訪ねています。北3条西7丁目界隈は、こうした人々が行き交う場所でもあったのです。
バチラーは、アイヌの子どもや青少年の教育の問題に特に関心を寄せていました。当時は、小学校(尋常小学校)の間は義務教育として授業料などは必要なかったのですが、それより上の、高等小学校や中学校(男子)、高等女学校(女子)に進むとなると、授業料などを負担しなければならず、ある程度裕福な家庭でなければ進学は難しいとされていました。また、このような上級学校は大きな町にしか設けられていなかったので、農村や漁村から進学するためには、都会に出て下宿する必要がありました。
バチラーは、早くから、自宅にアイヌの生徒を寄宿させて札幌の学校に通わせるなどの活動をしていました。1924(大正13)年には、自宅の敷地に寄宿舎を設け、支援者の寄などを受けて財団法人「バチラー学園」という組織を設立して、アイヌの青少年の進学支援を本格的に進めていきます。
当時の記録によれば、1931(昭和6)年度には14名、1933(昭和8)年度では13名の若者がこの寄宿舎で暮らしていたとされています。また、学校に通う青少年たちばかりでなく、さまざまな人たちが学園を訪れ、寄宿舎に滞在していました。
例えば、後に社団法人北海道ウタリ協会(現:北海道アイヌ協会)の理事長を務めた野村義一(のむら ぎいち)さんは、専門学校検定試験という資格試験を受けるため札幌に出たとき、バチラー学園に宿泊したそうです。そのとき、登別の出身でのちに北海道大学教授をつとめた知里真志保(ちり ましほ)さんが、このころ旧制一高(現在の東京大学教養部)の学生で、やはり札幌に来ていて、たまたまここで一緒に宿泊したことがあるそうです。
また、1931(昭和6)年に、札幌で「全道アイヌ青年大会」という北海道各地のアイヌの若者たちが集まって意見を述べ合う会が催されたことがありますが、遠方からの参加者も、ここに宿泊したそうです。
バチラーは、日本が戦争に突入していく中、1940(昭和15)年末にイギリスに帰郷、学園もこのとき閉鎖されました。学園の建物は現存していません。バチラーの自宅の建物は、1962(昭和37)年に北海道大学に寄贈され、今は北大植物園の中に移設されています。
いま私たち職員が仕事をし、このメルマガを発信している場所は、さまざまな希望や想いを抱いた若者たちが暮らしていたところでもある、というのは、とても大事なことだと思っています。
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