室蘭の港の入口にかかる白鳥大橋。JR室蘭駅からこの白鳥大橋に向かって進んでいくと、橋が間近に見えてきたあたりが祝津町というところです。そこに、円形のユニークな校舎が印象的な室蘭市立絵鞆小学校があります。祝津町にあるのに絵鞆小学校という名前なのは、少し不思議な感じがするかもしれませんが、そこには、この学校の歴史が反映しています。
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〔地図〕室蘭市と絵鞆・祝津の位置 |
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絵鞆小学校の歴史は、1892(明治25)年、現在の絵鞆町に設置された、常盤学校(現在の室蘭市立常盤小学校)の分校からはじまります。当時のこの地域に暮らしていたのは、多くが絵鞆のアイヌの人々でした。分校設立の中心となったのは、押杵帯九郎(1840頃~1913年)という人で、絵鞆の有力者だったとされています。
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絵鞆小学校跡に設置されている記念碑
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押杵氏はもとの名をオビシテクル(オビステクル)といい、絵鞆の対岸、元室蘭(現在の崎守)に生まれ、のち絵鞆に移り(海岸町に住んでいたところ、札幌本道の工事のころに絵鞆に移転させられた、とする記録もあります)、早くから、絵鞆と室蘭港の市街地との間の道路の整備などにつとめていたと言われています。それまでの絵鞆の子どもたちにとって最も近い小学校は常盤学校でしたが、そこまでは4キロ以上も離れていました。分校開校の直前には絵鞆から8名が常盤まで通学していた記録が残されていますが、特に冬の通学は困難だったとされ、押杵氏は、早くから自宅で寺子屋式の私塾も開いていたとも言われています。このような中で地域に学校の設立を目指した押杵氏は、自宅を仮校舎に充てることで、道庁から常盤学校分校としての設置の認可を受けたのでした。
設立にあたっては、押杵氏ばかりでなく、地域の人々から広く拠金が寄せられたとされています。
1894(明治27)年には生徒の増加を受けて現在の絵鞆町1丁目に校舎が新築され、1899(明治32)年には独立して絵鞆尋常小学校となります。この間、押杵氏は1895(明治28)年に北海道庁長官から表彰を受けています。
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押杵氏は、絵鞆尋常小学校の歴史とともに、アイヌ語研究の歴史にも名を残しています。日本におけるアイヌ語研究の先駆者として知られる金田一京助氏(1882~1971年)が、はじめてアイヌ語調査のために北海道を訪れたのは1906(明治39)年のことで、このとき金田一氏は先ず室蘭に上陸し、知人のつてを頼って、室蘭で大規模な海運業などを営んでいた栗林五朔(くりばやしごさく)氏のもとを訪れます。このとき栗林氏は、押杵氏を招いて、金田一氏と会わせています。金田一氏が後年回想するところによれば、金田一氏の北海道旅行の目的を知った栗林氏が、その便宜をはかるために、以前から付き合いのあった押杵氏を呼んだのではないかとされています。金田一氏の北海道における最初のアイヌ語調査は、押杵氏との面談から始まったのでした。
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さて、絵鞆尋常小学校では、1910年代に入ると祝津が漁港として栄えて移民が増え、生徒も00名を超えるほどに急増しますが、これに伴って、学校そのものを人口の増えた祝津方面に移転する動きが起こります。絵鞆の人々からは反対の声も上がりましたが、結局、学校は祝津に移転し、名前に「絵鞆」が残されることになりました。
押杵氏のように自ら学校の設置や誘致に動き、ときには私財を醵出する人々がいたことは、1890~1900年頃の幾つかの地域の記録に出てきます。ちょうど北海道の各地で小学校の設置が進められたころですが、アイヌの人々の集落では、道庁による学校の設置に必ずしも十分な予算が確保されない中で、地域の人々が自ら教育条件の整備を求めて動いた例が少なくなかったということだと思います。また、こうして設置された学校のその後の歴史を見ると、移民の人口が増えるにしたがい、人口の多くなった地域に校舎が移転する動きが起こった例が、絵鞆尋常小学校の他にも見られます。
この連載では、これから、こうした学校の歴史のいくつかを紹介していく予定です。
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押杵氏への木杯授与を報じた雑誌『教育報知』の記事 (第461号、1895年2月) |
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*表題の「アイノ土人」という言葉づかいをはじめ、本文にも「誰れ一人文字を顧みるものなき」など、当時のアイヌに対する偏見に満ちた言葉や言い回しが多く見られます。それらが、最後の部分の「内地教育家」の「奮発」を促す言い方につながっていることも、こうした文章に共通して見られる特徴です。 | |