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アイヌ文化講座

平成13年度 アイヌ文化講座 開催報告

 11月9日(金)、松前町においてアイヌ文化講座を開催しました。

 今年度の講座は、国立民族学博物館民族学研究開発センターの佐々木史郎助教授に『松前と山丹交易-大陸との経済文化交流における松前藩の役割について-』というタイトルで、18世紀~19世紀の樺太やアムール川流域先住民の交易活動と松前藩の関わりについて話していただきました。

 当日は60名近くの参加者が、佐々木先生の興味深い話に耳を傾けていました。


会場風景

会場風景

松前町教育長による挨拶の様子です。

松前町教育長挨拶

佐々木先生の講演の様子です。

佐々木先生の講演

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<当日配布資料>

平成13年度 アイヌ文化講座
松前と山丹交易
-大陸との経済文化交流における松前藩の役割について-


佐々木史郎
国立民族学博物館

1. 山丹交易とは


○山丹交易とは18世紀から19世紀にかけて、現在のサハリン(日本名樺太)からアムール川下流域にかけての地域で行われた交易活動を指します。この地域では先史時代以来断続的にモノや人の往来がありましたが、特にこの時代に最盛期を迎え、日本の文献に登場するようになります。「山丹」(サンタン、山靼、山旦とも記されます)という言葉が日本の史料に登場するのも18世紀です(坂倉源次郎『北海随筆』1739年)。ちなみに、「山丹交易」という言葉を学術用語として初めて使ったのは末松保和という研究者で、1928年のことです(『近世に於ける北方問題の進展』)。

2. サンタン人とは

○サンタン(山丹)という言葉は当初樺太の対岸にある大陸から来る人々と彼らが住む地域を指していました。その語源はニヴフ語のヤントという言葉にあるといわれますが、それがなまってジャンタ、シャンタ、サンタとなりアイヌ語を経由して日本側に伝わったと考えられています。ただし、この言葉が普及するのは18世紀の後半でして、それまではこの地方のことは「東韃」(東の韃靼という意味、間宮林蔵の『東韃地方紀行』もそこから来る)と呼ばれていました。

○サンタンという言葉が実は大陸側のごく限られた地域の人々を指すことを明らかにしたのは、1809年の間宮林蔵の調査でした。その結果サンタンは、アムール川本流域のカサマーという村からジャレーという村までの間にすむ人々とされました。カザマーより一つ下流のポルという村より下流にはスメレンクルが(彼らはサハリンの西海岸にもいました)、ジャレーより一つ上流のウルゲーという村より上流にはコルデッケと呼ばれる人々がいたのです。

○サンタン人がいかなる民族なのかは白鳥庫吉以来いろいろ議論されてきました。言語的には池上二郎の研究によってアムール・ツングース語の一種を話していただろうということがわかっています。最も近いのは現在のウリチ語ですが、サンタンの言葉にはアイヌ語やニヴフ語の単語も混ざっています。現在のウリチという民族がこのサンタン人を主要な祖先としています。

3. 中国のアムール・サハリン支配の歴史

○山丹交易が18、19世紀に盛んになった背景には当時の東アジアの国際情勢が関係していました。17世紀のはじめに満洲人が興した清という王朝が中国の支配者になり(1644年)、西から領土を拡張してきたロシアとの争奪戦に勝って、アムール川流域とサハリンの北部を支配下におきます。このとき清朝はアムール川流域とサハリンのクロテンをはじめとする毛皮資源に注目し、そこから定期的に決まった数量のクロテンの毛皮を確保するために、そこの住民を毛皮貢納民として組織し直しました。

○清朝は住民を戸(ボー)、村(ガシャン)、氏族(ハラ)という単位で組織し、1戸当たり毎年1枚のクロテンの毛皮を貢納させるとともに、貢納者には綿織物の衣類や反物などを恩賞として与えました。また、集落や氏族には首長を任じ、彼らには特別に毎年絹製の満洲官吏の制服を1式と綿織物などを恩賞として与えました。そして、毛皮貢納のために町(当初は毛皮朝貢の業務が寧古塔で行われたが、1780年にすべて三姓に移管する)にやってきたものには、町の商人たちとの交易を許しました。そのような支配体制がアムールやサハリンの住民の交易活動を大いに活性化させたのです。

○毛皮貢納民でも氏族長や村長の地位は清の官僚組織の中では中堅どころでした。また、そのような地位になくても毛皮を一定数納めると、清朝の貴族の娘と結婚して姻戚関係を持つ権利も与えられました。そのような毛皮貢納民は記録に表れるだけでも18世紀の初めから19世紀の初めにかけて19人ほどが数えられています。

○清朝はまた警察権と裁判権をこの地域に対して行使しています。1742年にはキジ村でホジホンの1人が殺人事件を起こしましたが、清朝は加害者を逮捕し、被害者側の証人も交えて裁判を行っています。また、同じ頃サハリンでも地元のアイヌが大陸からきた商人たちを掠奪するという事件が起きていますが、その時も清朝は役人を派遣して取り締まっています。

4. 松前藩と江戸幕府の樺太関係史

○日本側がアムール、サハリンの地域と明確な関係を持ち始めるのは17世紀になってからです。松前藩は1635年にサハリンに最初に藩士を派遣して調査を始めて以来、たびたびサハリンには藩士が送られています。しかし、松前は積極的にサハリンの住民を統治することはせず、1680年代に宗谷に商場を設けて、そこに来航するサハリン・アイヌを相手にオムシャの儀式を行い、交易をしました。その時、サハリン・アイヌの人々がもたらしたのが中国製の絹織物(いわゆる蝦夷錦)やガラス玉、ワシやタカの尾羽で、それらは大陸からやってくる「サンタン人」と呼ばれる人々から手に入れいていたわけです。そのサンタン人こそが清朝の毛皮貢納民だったのです。18世紀末期から19世紀初頭当時、ブヤンコ、カリヤシン(以上キジ村)、カンテツカ(タイカサン村)などのサンタン商人の名前が史料に残されています。

○松前藩では蝦夷錦やワシ・タカの尾羽などは「軽物」と呼ばれてその交易権は藩主が握っていたといわれています。これらの軽物は爛熟してきた江戸時代中後期の文化の中で、人々の自尊心をくすぐる格好の小道具として使われました。山丹服そのものが貴重な物でしたが、蝦夷錦の反物も袱紗や敷物、袋類、紙入れなどに仕立てられ、武士や寺社、金持ちたちに喜ばれました。ワシやタカの尾羽も本来は矢羽として使われるはずの物でしたが、次第に大名間の贈答品となっていきます。

○松前藩はサンタン商人とは直接取引をしなかったといわれています。彼らは中国に服属しているいわば「外国人」とみなされ、彼らと直接取り引きすると密貿易の嫌疑が掛けられるからです。松前藩が1790年にはサハリンの南端の白主に商場(会所)を設置して樺太アイヌが宗谷海峡を渡らなくても松前藩と交易ができるようになります。しかし、その会所の前でアイヌとサンタンが取引をしているにもかかわらず、松前藩はアイヌを通じてサンタン人がもたらす錦などの商品を手に入れていました。その対応はまるで腫れ物に触るようだったともいわれました。

○樺太アイヌや宗谷のアイヌたちがサンタン商人に多額の借金を負った理由はしばしば「サンタン人が狡猾」で「アイヌが文化程度が低くて無知」だったということにされていますが、それは明らかに間違いです。決してサンタン人が狡猾だったわけでもアイヌが無知だったわけでもありません。商品を先に渡して定期的にまとめて支払いを受ける信用による売買は当時の東アジア世界では共通に行われていた商慣習でした。アイヌたちの借金がかさみ、社会問題化した理由は、当時のサンタンとアイヌの力関係、ひいてはこの地域における清朝と日本の政治経済的な力学にあったのです。

○江戸幕府がサハリン、千島列島といった北方地域に関心を持つようになったのは、18世紀におけるロシアの南下政策の結果です。ロシアは18世紀前半までにカムチャツカ半島での支配権を確立し、毛皮獣(ラッコ)と交易相手を求めて千島列島を南下して、北海道や本州の沖合に出没し始めました。それに対して民間から工藤平助や林子平らが警告を発しましたが、松平定信はその影響をいち早く察知して、林子平を弾圧すると同時に、蝦夷地支配の改革と蝦夷地関係の情報の収集を始めました。そのころから幕府の命令による蝦夷地探検が活発になり、大石一平、最上徳内、近藤重蔵、中村小市郎、高橋次太夫、松田伝十郎、間宮林蔵などが活躍しました。しかし、同時に松前藩も調査を行っており、松前平角などはキジ村来るブヤンコというサンタン人に手紙を持たせたとすらいわれています。

○北海道東部で反乱が起きたり(いわゆるクナシリ・メナシの蜂起)、サハリンではアイヌのサンタン商人への負債が増加して社会不安が起きるなど、松前藩の蝦夷地に対する統治能力に疑問を抱いた幕府は1799年と1807年の2回に分けて蝦夷地を直轄地化します。その時サハリンのアイヌの統治に活躍したのが松田伝十郎でした。彼は幕府の出費でアイヌのサンタン商人に対する負債を帳消しにして、白主での交易規則を定め、アイヌとサンタン人との私的な交易だった山丹交易を幕府公認の取引に変えてしまったのです。その体制は1822年に松前藩が蝦夷地に復帰した後も、また1855年に幕府が再度蝦夷地を直轄したときにも引き継がれていきました。

5. 山丹交易の経済学

○山丹交易では様々な商品がアムール川下流域とサハリンを通って中国と日本の間で行き来しましたが、それをまとめると、大陸から日本の方向に向かって動いた商品には、絹織物(蝦夷錦の反物)、山丹服(絹の上衣)、綿織物(反物)、段通、ガラス玉(青玉など)、ワシやタカの尾羽、皮革製品、陶磁器類、酒(アルヒ)、穀類などがありました。絹織物、ことに龍文が描かれたものは日本人為ことのほか喜ばれ、高値で取り引きされました。

○日本から大陸の方向へ動いた商品には、毛皮類(クロテン、銀ギツネ、キツネ、カワウソ、アナグマ、タヌキなど)、鉄製品(鍋、ヤスリ、ナイフなど)、漆器類、米、酒(日本酒)等がありました。その中では毛皮類と鉄製品が喜ばれ、特に日本製の鉄製品はアムールやサハリンの住民間で高値で取り引きされ、大きな鉄鍋が財産とみなされました。

○日本と中国の間には毛皮や絹織物の価値、価格に大きな差がありました。日本側が絹織物を高く見積もり、毛皮を安く見積もっていたのに対して、中国はその逆だったのです。そのため、中国側は毛皮に対して気前よく絹織物や綿織物を交換し、日本側はそれらに対して気前よく大量の毛皮を支払いました。毛皮と絹織物の価格の差は10倍近くに上りました。その差額でサンタン商人たちはかなり大きな利益を上げることができたようです。彼らはそれで得た利益をクマ祭りなどの儀礼を通じて地域に再分配するとともに、宝物に変えて家の中に蓄えました。宝物とされたのものには日本製の大型鉄鍋、満洲製の古鎧、鯨の髭を貼った弓、銀の象嵌を施した槍、ヤマネコの毛皮の外套などです。

6. 交易と文化

○山丹交易が盛んであった18世紀と19世紀の間、交易はアムールとサハリンの住民にとって狩猟、漁撈、採集と並ぶ重要な経済活動でした。彼らの食料や生活物資は基本的には狩猟、漁撈、採集によって支えられていたといわれてきましたが、実は交易こそが彼らの文化を支えた中心的な柱だったのです。

○交易によってもたらされた物資は、この地域の住民の物質文化と精神文化に大きな影響を与えました。彼らの使う食器には中国製の陶磁器や日本製の漆器が使われ、調理器具には中国製、日本製の鉄鍋が使われました。ナイフの刃は日本製の鉄製品から作られました。衣類の材料には魚皮や獣皮の他に絹や木綿の織物が使われ、装身具には中国伝来の真鍮のリングや色とりどりのガラス玉、美しい色合いの玉類が使われました。

○交易は精神生活をも支えました。彼らは独自のシャマニズムとともに、中国の道教や満洲人の天神信仰に由来する神々を信仰していたのです。また、清朝の統治は彼らの社会にも大きな影響を与えました。例えば古い習慣であった血讐(殺人事件が起きると、被害者側の一族が加害者側の一族に復讐を行う)が影を潜め、それに代わって紛争を地域内の裁判で審議し、賠償によって解決するという方法が定着していきます。それは清朝の裁判制度がこの地域に浸透した結果でしょう。

○交易は生業にも大きな影響を与えました。狩猟活動の中でも毛皮獣を捕るための技術と道具類が発達し、漁撈の中でも交易品になるチョウザメ漁が盛んになりました。しかし、その一方で基本的な食料である肉や魚は交易してはならないという不文律があったようで、干し魚や肉類が不足すると、交易ではなく、相互扶助の原則で互いに融通しあったようです。狩猟や漁撈によって得られる食料の中で唯一売り買いができたのは魚油、アザラシ油でした。それは調味料のようなものだったからなのかもしれません。

7. 山丹交易の終焉

○19世紀初期に幕府公認となった山丹交易は蝦夷地が松前藩に復領しても、また再び幕府の直轄地になっても続き、結局1867年までサンタン商人が来航します。しかし、1868年に明治新政府が成立すると、それを廃止してしまいます。サンタン商人は日本政府という大きな得意先を失いました。それは山丹交易衰退の大きな原因の一つだったと考えられます。

○千島列島とサハリンの領有の問題は18世紀にロシアが日本に接触を求めてきたとき以来の懸案事項でした。とりあえず一旦は1855年の日露通交条約によって千島列島ではウルップ島と択捉島の間で国境線を引き、サハリンには国境をもうけないということで合意が得られます。しかし、明治政府はサハリン開拓に意欲がなく、結局サハリンの領有権を放棄してウルップ以北の千島列島の領有権を得ることで妥結します。それが1875年の樺太千島交換条約です。それにより、宗谷海峡に近代的な国境線が引かれてしまいました。それにより日本は完全に山丹交易から撤退してしまたのです。

○それより先、清朝は衰退期に入り、アヘン戦争、アロー号戦争などヨーロッパ列強との戦いに破れていました。さらにロシアが1849年から再びアムールに進出を始めたのです。アロー号戦争に破れ、国力に余裕のない清朝は1858年のアイグン条約と1860年の北京条約でほぼ現在の国境線に沿う形で領土を割譲させられます。アムール川下流域とサハリンは清朝の支配から脱落してしまうのです。しかし、それでも毛皮貢納制度は部分的に続けられました。19世紀末期まではロシア領となったアムール川下流域からも毛皮貢納民は三姓の町に来貢しています。また、中国との交易活動は1930年代まで続けられたようです。アムール川の最も下流にすむニヴヒの間には今なお三姓へ交易に出かけた記憶が残されています。しかし、それも次第に衰退してしまいます。

○清朝は満洲人の故郷を守るために18世紀以来「封禁令」といって東北地方への漢民族の移住を禁じました。またアムール川下流域へは毛皮貢納業務に携わる役人以外は立ち入りを禁じました。しかし、19世紀後半の列強の侵略が続く中、清朝はその政策を放棄します。そのために漢民族が東北地方にあふれ出し、さらにアムール川下流域へもあふれ出てきました。特に商人は急速にアムールに進出してサンタン商人らの交易権を侵害しはじめました。またロシアからも商才に長けたロシア商人やヤクート商人が進出し、サンタン商人の克哉の場を奪っていったのです。それも山丹交易衰退の原因だったでしょう。

○結局山丹交易は清朝の中国と江戸幕府の日本という2つの東アジアの前近代国家と癒着して栄えた交易だったのです。清朝の毛皮貢納制度と江戸幕府の蝦夷地政策がこの交易活動を政治経済両面で支えていたのです。したがって、それが崩れた瞬間山丹交易も衰退を余儀なくされたのです。

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山丹交易関係年表

年 代 交 易 関 係 事 項
13世紀中頃  モンゴルが現在のトゥィルの地にヌルガン東征元帥府を設置する
1264年 元朝(モンゴル)の軍とサハリンの骨嵬(クギ)との初めての衝突
1308年 元朝と骨嵬との軍事衝突が終了し、骨嵬が元に朝貢することを約束する
1368年 明が元をモンゴル高原に追放し、元のアムール、サハリン支配崩壊
1409年 明がトゥィルの地にヌルガン都指揮司を設置する
このころ明はアムール川流域やサハリン、沿海地方に衛を多数設立
1413年 ヌルガンに永寧寺が建立される(後に地元民が破壊)
1433年 永寧寺が再建される
1578年 イェルマークのシベリア遠征(ロシアのシベリア征服が始まる)
1583年 建州女真の中からヌルハチが台頭する
1593年 松前慶広が徳川家康に北回りで手に入れた唐衣を贈呈する
1599年 松花江とアムール川流域の人々が初めてヌルハチのもとに朝貢に現れる
1616年 ヌルハチがハーンとなり、国号を金(後金)とする
1620年代 後金の勢力が沿海地方からウスリー江流域に広がる
1630~40年代 後金の勢力がウスリー江から松花江、アムール川中流域まで広がる
1635年 松前藩が初めてサハリンに藩士を送り、調査を行う
1636年 ヌルハチの子ホンタイジが国号を金から清に変える
1643~45年 ロシアコサック長ポヤルコフがヤクーツクを出発してアムール川に向かう
1643年 オランダ人フリースがサハリンのタライカ湾に上陸する
1644年 李自成の乱により明が滅亡、清が北京に入城する
1649年 ハバーロフがヤクーツクを出発してアムール川に向かう
1650年 ハバーロフがアムール川上流にアルバジン要塞を建設
1651年 ハバーロフがアムール川下流にアチャン要塞を建設
その秋先住民の800人の部隊がアチャン要塞を襲うが敗退
1652年 清と先住民の連合軍がアチャン要塞を攻撃するが敗退(初めての露清の軍事衝突)
1653年 ハバーロフがアムール方面司令官を解任され、後任にステパノフが任命される
牡丹江中流にあった寧古塔(ニングタ)が東北地方支配の拠点として強化される
1658年 清と朝鮮の連合軍が松花江の河口付近でロシアコサック部隊を攻撃し、それを破る
ステパノフが戦死して、ロシアのアムール進出が頓挫する
1665年 ロシア側がアルバジン要塞を復興
1674年 北方防備のため松花江、アムール川流域の毛皮貢納民を満洲八旗が組織される
1684年 ロシアが再度アムール川下流に進出を計るも清に撃退される
このころ北海道北端の宗谷に松前藩が商場を開く(宗谷場所)
1685~86年 アルバジン要塞の攻防
1689年 ネルチンスク条約締結 露清の武力衝突が終わり、アムール川流域が清の領土となる
1690年 清がアムール川下流に軍を派遣して、サハリンの住民にも朝貢を促す
1708~09年 清の康煕帝が測量を命じた3人のイエズス会士がアムール川下流域を調査する(その結果は後に『皇輿全覧図』の一部に使われる)
1714年 牡丹江河口に三姓(イラン・ハラ)の町が建設される
松花江とアムール川中流域の毛皮貢納民が満洲八旗に組織されて三姓に駐屯
1732年 松花江、ウスリー江、アムール川中流域の毛皮貢納民の満洲八旗への編入が終了する
サハリンの住民が6つのハラ(氏族)に編成され、毛皮貢納民となる
三姓の機能が強化され、サハリンからの朝貢業務を担当するようになる
1739年 坂倉源次郎が『北海随筆』で「サンタン」という言葉を使う
1742年 コイマで地元の有力者がサハリンから来た毛皮貢納民を殺害するという事件が起きる
1740年代 同じ頃サハリンでも大陸から来た商人の船が掠奪されるという事件が起きる
1750年 アムール川流域とサハリンの毛皮貢納民が2398戸で固定される
1750年頃 このころすでにキジ村に清朝の出張所がおかれ、サハリンやアムール河口からの毛皮朝貢を受け付けていた
1780年 アムール川流域とサハリンの毛皮朝貢に関する業務が三姓に一本化される
1787~88年 第1回目の幕府主催のサハリン調査(大石逸平らが派遣される)
1790年 松前藩がサハリン南端の白主に商場を設ける
1792年 第2回目の幕府主催のサハリン調査(最上徳内らが派遣される)
ロシアのラクスマンが大国屋光太夫をつれて根室に来航する
1798年 このころキジ村の清朝の出張所が廃止される
1799年 幕府が北海道東南部とクリル諸島を含む東蝦夷地を直轄地とする
1801年 第3回目の幕府主催のサハリン調査(中村小市郎、高橋次太夫が派遣される)
1804年 ロシアのレザノフが長崎に来航するが通商を断られる
1805年 ロシアのフヴォストフ、ダヴィドフらによるエトロフ島とサハリン襲撃(中川五郎次が捕虜になる)
1807年 幕府がサハリンも含む全蝦夷地を直轄地化(松前藩を梁川に移封する)
1808年 第4回目の幕府主催のサハリン調査(松田伝十郎と間宮林蔵が派遣される)
1809年 間宮林蔵によるアムール下流域探検 デレンの清朝の出張所(「満洲仮府」)に到達する
松田伝十郎によるサハリンのアイヌたちのサンタン商人に対する負債の整理が始まる
1810~11年 中川五郎次が抑留先のウダ要塞を逃亡しシャンタル湾からアムール河口近くまで到達する
1812年 アイヌのサンタン商人への負債整理が終了
松田伝十郎、白主でのサンタン人との取引に関する規約を作る(山丹交易が幕府直営となる)
1811~13年 ゴローニン事件(ゴローニンと高田屋嘉兵衛が相互に拘禁される)
1822年 松前藩が蝦夷地に復帰する(山丹交易も松前藩直営となる)
1849年 ロシアのネヴェリスコイが政府に無断で河口からアムール川に侵入して調査を始め、ニコラエフスク、マリースク、ソフィースクと着々とアムールに軍事拠点を築く
ロシアの民族学者によるアムール調査が始まる
1853年 ペリーが率いるアメリカの黒船が日本を訪れる
同じ頃サハリンではロシアがサハリン南部にも進出
1854~56年 L・シュレンクがアムール川とサハリンを調査する 55年にはR・マークのアムール調査
1855年 幕府が再び全蝦夷地を直轄地とする(山丹交易は箱館奉行所の管轄とされる)
日露通好条約(エトロフ・ウルップ間に国境線を引き、サハリンは日露雑居とする)
1858年 ロシアと清がアイグン条約を締結(アムール川左岸全域がロシア領となる)
1860年 ロシアと清が北京条約を締結(現在の中ロ国境線の基礎ができる)
1868年 明治維新 箱館奉行所が山丹交易を停止する
1875年 日本とロシアが樺太千島交換条約を締結する(サハリンが全島ロシア領となる)
サハリンは流刑地となり、政治犯の中からシュテルンベルク、ピウスツキなどの民族学者が現れる
1904年 日露戦争勃発
1905年 日本とロシアがポーツマス条約を締結する(サハリンが北緯50度線で分割される)
1917年 ロシア革命勃発 アムール川流域とサハリンも内戦に巻き込まれる
1918~22年 日本によるシベリア出兵
1926年 サハリンのポロナイ川の中州に非アイヌ系先住諸民族を集めた村「オタスの杜」が建設される
1931~45年 日中15年戦争と太平洋戦争
1945年 日本の敗戦で千島列島と南サハリンがソ連に占領される
1951年 サンフランシスコ条約で日本が南サハリンと千島列島北部を正式に放棄するが、いわゆる北方四島の領有を主張

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