年 代 |
交 易 関 係 事 項 |
13世紀中頃 |
モンゴルが現在のトゥィルの地にヌルガン東征元帥府を設置する |
1264年 |
元朝(モンゴル)の軍とサハリンの骨嵬(クギ)との初めての衝突 |
1308年 |
元朝と骨嵬との軍事衝突が終了し、骨嵬が元に朝貢することを約束する |
1368年 |
明が元をモンゴル高原に追放し、元のアムール、サハリン支配崩壊 |
1409年 |
明がトゥィルの地にヌルガン都指揮司を設置する |
このころ明はアムール川流域やサハリン、沿海地方に衛を多数設立 |
1413年 |
ヌルガンに永寧寺が建立される(後に地元民が破壊) |
1433年 |
永寧寺が再建される |
1578年 |
イェルマークのシベリア遠征(ロシアのシベリア征服が始まる) |
1583年 |
建州女真の中からヌルハチが台頭する |
1593年 |
松前慶広が徳川家康に北回りで手に入れた唐衣を贈呈する |
1599年 |
松花江とアムール川流域の人々が初めてヌルハチのもとに朝貢に現れる |
1616年 |
ヌルハチがハーンとなり、国号を金(後金)とする |
1620年代 |
後金の勢力が沿海地方からウスリー江流域に広がる |
1630~40年代 |
後金の勢力がウスリー江から松花江、アムール川中流域まで広がる |
1635年 |
松前藩が初めてサハリンに藩士を送り、調査を行う |
1636年 |
ヌルハチの子ホンタイジが国号を金から清に変える |
1643~45年 |
ロシアコサック長ポヤルコフがヤクーツクを出発してアムール川に向かう |
1643年 |
オランダ人フリースがサハリンのタライカ湾に上陸する |
1644年 |
李自成の乱により明が滅亡、清が北京に入城する |
1649年 |
ハバーロフがヤクーツクを出発してアムール川に向かう |
1650年 |
ハバーロフがアムール川上流にアルバジン要塞を建設 |
1651年 |
ハバーロフがアムール川下流にアチャン要塞を建設 |
その秋先住民の800人の部隊がアチャン要塞を襲うが敗退 |
1652年 |
清と先住民の連合軍がアチャン要塞を攻撃するが敗退(初めての露清の軍事衝突) |
1653年 |
ハバーロフがアムール方面司令官を解任され、後任にステパノフが任命される |
牡丹江中流にあった寧古塔(ニングタ)が東北地方支配の拠点として強化される |
1658年 |
清と朝鮮の連合軍が松花江の河口付近でロシアコサック部隊を攻撃し、それを破る |
ステパノフが戦死して、ロシアのアムール進出が頓挫する |
1665年 |
ロシア側がアルバジン要塞を復興 |
1674年 |
北方防備のため松花江、アムール川流域の毛皮貢納民を満洲八旗が組織される |
1684年 |
ロシアが再度アムール川下流に進出を計るも清に撃退される |
このころ北海道北端の宗谷に松前藩が商場を開く(宗谷場所) |
1685~86年 |
アルバジン要塞の攻防 |
1689年 |
ネルチンスク条約締結 露清の武力衝突が終わり、アムール川流域が清の領土となる |
1690年 |
清がアムール川下流に軍を派遣して、サハリンの住民にも朝貢を促す |
1708~09年 |
清の康煕帝が測量を命じた3人のイエズス会士がアムール川下流域を調査する(その結果は後に『皇輿全覧図』の一部に使われる) |
1714年 |
牡丹江河口に三姓(イラン・ハラ)の町が建設される |
松花江とアムール川中流域の毛皮貢納民が満洲八旗に組織されて三姓に駐屯 |
1732年 |
松花江、ウスリー江、アムール川中流域の毛皮貢納民の満洲八旗への編入が終了する |
サハリンの住民が6つのハラ(氏族)に編成され、毛皮貢納民となる |
三姓の機能が強化され、サハリンからの朝貢業務を担当するようになる |
1739年 |
坂倉源次郎が『北海随筆』で「サンタン」という言葉を使う |
1742年 |
コイマで地元の有力者がサハリンから来た毛皮貢納民を殺害するという事件が起きる |
1740年代 |
同じ頃サハリンでも大陸から来た商人の船が掠奪されるという事件が起きる |
1750年 |
アムール川流域とサハリンの毛皮貢納民が2398戸で固定される |
1750年頃 |
このころすでにキジ村に清朝の出張所がおかれ、サハリンやアムール河口からの毛皮朝貢を受け付けていた |
1780年 |
アムール川流域とサハリンの毛皮朝貢に関する業務が三姓に一本化される |
1787~88年 |
第1回目の幕府主催のサハリン調査(大石逸平らが派遣される) |
1790年 |
松前藩がサハリン南端の白主に商場を設ける |
1792年 |
第2回目の幕府主催のサハリン調査(最上徳内らが派遣される) |
ロシアのラクスマンが大国屋光太夫をつれて根室に来航する |
1798年 |
このころキジ村の清朝の出張所が廃止される |
1799年 |
幕府が北海道東南部とクリル諸島を含む東蝦夷地を直轄地とする |
1801年 |
第3回目の幕府主催のサハリン調査(中村小市郎、高橋次太夫が派遣される) |
1804年 |
ロシアのレザノフが長崎に来航するが通商を断られる |
1805年 |
ロシアのフヴォストフ、ダヴィドフらによるエトロフ島とサハリン襲撃(中川五郎次が捕虜になる) |
1807年 |
幕府がサハリンも含む全蝦夷地を直轄地化(松前藩を梁川に移封する) |
1808年 |
第4回目の幕府主催のサハリン調査(松田伝十郎と間宮林蔵が派遣される) |
1809年 |
間宮林蔵によるアムール下流域探検 デレンの清朝の出張所(「満洲仮府」)に到達する |
松田伝十郎によるサハリンのアイヌたちのサンタン商人に対する負債の整理が始まる |
1810~11年 |
中川五郎次が抑留先のウダ要塞を逃亡しシャンタル湾からアムール河口近くまで到達する |
1812年 |
アイヌのサンタン商人への負債整理が終了 |
松田伝十郎、白主でのサンタン人との取引に関する規約を作る(山丹交易が幕府直営となる) |
1811~13年 |
ゴローニン事件(ゴローニンと高田屋嘉兵衛が相互に拘禁される) |
1822年 |
松前藩が蝦夷地に復帰する(山丹交易も松前藩直営となる) |
1849年 |
ロシアのネヴェリスコイが政府に無断で河口からアムール川に侵入して調査を始め、ニコラエフスク、マリースク、ソフィースクと着々とアムールに軍事拠点を築く |
ロシアの民族学者によるアムール調査が始まる |
1853年 |
ペリーが率いるアメリカの黒船が日本を訪れる |
同じ頃サハリンではロシアがサハリン南部にも進出 |
1854~56年 |
L・シュレンクがアムール川とサハリンを調査する 55年にはR・マークのアムール調査 |
1855年 |
幕府が再び全蝦夷地を直轄地とする(山丹交易は箱館奉行所の管轄とされる) |
日露通好条約(エトロフ・ウルップ間に国境線を引き、サハリンは日露雑居とする) |
1858年 |
ロシアと清がアイグン条約を締結(アムール川左岸全域がロシア領となる) |
1860年 |
ロシアと清が北京条約を締結(現在の中ロ国境線の基礎ができる) |
1868年 |
明治維新 箱館奉行所が山丹交易を停止する |
1875年 |
日本とロシアが樺太千島交換条約を締結する(サハリンが全島ロシア領となる) |
サハリンは流刑地となり、政治犯の中からシュテルンベルク、ピウスツキなどの民族学者が現れる |
1904年 |
日露戦争勃発 |
1905年 |
日本とロシアがポーツマス条約を締結する(サハリンが北緯50度線で分割される) |
1917年 |
ロシア革命勃発 アムール川流域とサハリンも内戦に巻き込まれる |
1918~22年 |
日本によるシベリア出兵 |
1926年 |
サハリンのポロナイ川の中州に非アイヌ系先住諸民族を集めた村「オタスの杜」が建設される |
1931~45年 |
日中15年戦争と太平洋戦争 |
1945年 |
日本の敗戦で千島列島と南サハリンがソ連に占領される |
1951年 |
サンフランシスコ条約で日本が南サハリンと千島列島北部を正式に放棄するが、いわゆる北方四島の領有を主張 |